コンビニで人生を学ぶ。~樋口一葉と外国人女性~

2020.06.22.Mon

 先週のことである。わたくしは、早朝からコンビニでアルバイトを開始する。この日は、将に梅雨を象徴した日であった。朝から雨が降る。歩いてバイト先に向かったのである。

 様々な仕事がある。レジ打ち、商品の前出し、たばこの補充など。お客さんが来ないとひたすら暇なのである。ふらふらする。新聞の見出しをちらりと見る。本の立ち読みをしたいというふつふつと沸き起こる欲望を押さえようとする。こっそりと筋トレをしてみる。

 いつもの時刻に終わりになる。

 事件が発覚したのはその時であった。

 5000円のマイナス。

 メンバーの入れ替え時には、レジ内の総額とレジの登録金額が合致するか確認する。5000円である。5000円合わなかったのだ。マイナスである。オーナーの奥さんがわたくしのレジ打ちで違和を感じたという。あるお客さんに対して、9000いくらをお釣りとして返していたのに、手元には5000円しかなかったという。わたくしも9000円返したことは覚えていた。現代は便利になった。防犯カメラがある。わたくしもそのお客さんは覚えていた。8時前であった。確認すると、わたくしは預かったお金を5000円の枠に戻していた…

 やってしまった、と思った。

 マイナス分は自分で負担せねばならぬ。払った。奥さんには二日分だね、と。

 もう何が悲しいのかもわからない。ただただ沈んでいく心であった。さらにこの日はわたくしにとって、人生の節目とも呼べる日であったのだ。そんな日に限って、心は沈みゆく。同じシフトの人は、気にしないようにと言う。それができないのが現実なのである。自分のミスでしかない、この失敗をどう受け止めようか。誰のせいにもできない。お金を失ったことより、自分の不注意が悔しかったのだと思う。

 何も手につかず、街を駆ける。雨はやんでいるが、どんよりとした曇り空が続く。本屋に立ち寄って、何かヒントを求めた。

 しばらく居座った。外に出ると霧雨が降る。ここから家までは距離があるのだ。走って帰った。

 もっと最悪な事例を考えてみた。例えば、このミスが医療ミスで命にかかわるものであったら?

 あるいは、こうも考えた。わたくしは5000円で何を買ったのだろうか。人生で忘れえない経験を買った、そして、それについて考察すればそれだけの価値があるのではないか。

 この思い付きは我ながら名案だと思った。

 しかし、理屈に流されてくれないのが感情なのである。甘いチョコレートを食べた後にもの寂しさを感じるように、良い案が浮かんでも、さっ、と暗い雲に覆われてしまう。どんなつらい経験についても同じことがいえよう。

 ここまでしたら、時間が解決してくれるのを待つしかないのだろう。

 ところで、誤って5000円多く渡してしまったのは、毎朝来る外国人の女性であった。次回話をして、返してもらうことを考えた。その可能性もわたくしは捨てきれなかった。父母に一連の出来事を話すと、帰ってこないという見方を強調した。

 この日のわたくしを救ったのは、友人からのメッセージであった。

 

 明けた月曜日。わたくしはこの日もアルバイトに向かった。日々の業務をこなす。ただ、心の中では、ダメもとで彼女に話してみようと思った。

 前回よりも少し早い時刻。7時45分。この日、この時刻はたくさんのお客さんが訪れ、レジ打ちが休まることがなかった。ふと、顔を上げた。彼女がいた。胸が飛び跳ねるようであった。彼女はいつものようにコーヒーを頼む。わたくしは、COVID-19対策で下がっている目の前のビニールをよけ、きいた。5000円多く返しましたか、と。彼女は、わかんないよ、と。そうですよね、と言ってお会計をし、彼女はコーヒーを入れに行く。5000円がもう戻らないことを悟った。レジには後ろにお客さんが列をなしている。気持ちを入れ替えて、対応しようとするが、同様のあまり、言葉が出てこなかったり、あやふやになったりした。頭の中では様々な思考が駆け巡る。今の状況をどう解釈すべきか。いや、今は目の前のお客さんに真摯に向き合うべきだ。またミスを繰り返してはならぬ。

 2人目のお客さんの対応が終わるころ、視界の片隅に彼女が移った。

 動揺を隠せない。レジ打ちの決まり文句でさえ、おかしくなる。

 列を割り込んで、わたくしに話しかける。信じるから、と。ほかにも何か話したような気がするが、その言葉だけが鮮烈にわたくしの心に残っている。少しつたない日本語ではあった。だが、まっすぐな瞳がわたくしを捉えていた。手には10000円を差し出していた。ありがとうございます、と言って受け取る。信じられない思いでいっぱいだった。わたくしの言葉だけを信じてくれたのだ。

 ああ、こうも言っていた。次からは気を付けるようにね、と。

 

 認知科学を学ぼうと志すわたくしにとってこの経験は、いかに人はものを認知する範囲の狭いことか、ということを実感させるものであった。

 ミスを減らすには、どんな行動をとるべきなのか。十分に反省しておく必要がある。

・預かり金額と打ち込んだ金額の合致。

・お釣りの表示と実際に渡す金額の合致。

この二点を指さし確認するべきなのだ。

 自分の失敗談を忘れないこと。そして時にはひとの失敗を知ること。それを必ず活かさなければならない。

 わたくしは大切なことを学んだ。