およそ15年の歳月を経て、雨ニモ負ケズの意味を知る。

20.03.20.Sat

 母との対談の続きである。

 ドライブは続く。

 宮沢賢治雨ニモ負ケズは世間に膾炙している。しかし、世の人はその意味を皆理解しているのだろうか。

 わたくしは、保育園の卒園式で雨ニモ負ケズを暗唱したため、今でも空でいうことができる。ただ、ずっと意味が分からなかった。

 壁に貼り付けられた雨ニモ負ケズを見上げて暗唱していた時、保母さんが隣で、

「そんな人になれたらいいねえ。」

と語らっているのをきいた。

 何故だろう。この生き方のどこがいいのだろう。

 「日照リノトキハ涙ヲ流シ、寒サノ夏ハオロオロ歩キ、」

 いや、困ったときになんもできん人じゃないか。

 幼心ながらそう思った。

 大人になったらわかるだろう。

 そして、ずっとわからなかった。

 この日、母に話したことで、図らずもその解釈方法を知った。

 何もできなくてもいいんじゃないか。どうしようもないことに打ちのめされているだけでもいい。使えないやつだといわれてもいい。

 そう、母は語った。

 わたくしは、不覚にも、涙をぽろぽろとこぼしてしまったのである。

 そういうことだったのか。

 意味が分かったせいか。

 わたくしが今欲しかった言葉だったからか。

 

「サウイフモノニワタシハナリタイ」(宮沢賢治)より

自分が好きなものを好きと言えるか。

2021.03.20.Sat

  母と車で三千メートル。わたくしは、いきなり今年の目標を語りだす。

「まわりの人を巻き込める人になる。楽しいことに自信を持つ。」

 わたくしは、自分の好きなことに自身を持てないのである。とても残念なことだということはわかっているのだが。万人受けする、スポーツや読書はいくらでもいえよう。しかしながら、地域を盛り上げる企画や勉強に対する好奇心をさらけ出すことにはとても勇気がいるのだ。いくつもあるコミュニティで自分を演じ分けてしまう。それが決して悪いことではないと思う。それぞれで楽しいのだから。でも、ときどき、自分の本当に思っていることを打ち明けられないこともある。その楽しさをめんどくさいことだと思う人もいる。あるいは冷めた目で見る人も。わたくし自身がわたくしをそう眺めているともいえる。そんなときもある。

 人がいいといわなくても、自分のすきなものを自信を持って、好きと言いたい。

 君のことを好きな人は、君の好きなこと、やりたいことをきっと応援してくれるはず。自信を持って語っていれば、いつしか感化されて乗ってくれるかもしれない。わたくしはそれに挑戦してみたいと思うのだ。初めは乗り気でないかもしれない。ひいているように見えるかもしれない。でも、絶対的な真理がある。人は楽しいことに惹かれる。わたくし自身が自信をを持っていなければ、誰も惹かれえない。もともと興味を持っている人についていくのみになってしまう。人は感化されるし、理解もしてくれる。自信がなくなったら、憧憬を抱く人を思い出してみよう。

 プラスアルファ。好きだと、口に出していれば、同じ興味を持った人が集うはず。きっと背中を押してくれる仲間ができるはずだよ。

 

「好きなら好きと言ってやればよかったのに。」

ずうっと、ずっと、大好きだよ(Hans Wihelm)より

 

キャリア形成論 ~隣町のインターンシップ~

2020.06.30.Tue

 わたくしには、インターンシップのイメージすらまだ確かではない。だが、今回の講義で、となり町のインターンシップ制度が何か異色なのは伝わってきたのである。そしてそれは非常にミリョクテキでありました。インターンシップの体験談のお話の中では、北さんは地域というフィールド全体で、恰もベンチャーとしてはたらいているんだ、と言うのです。その社会での自分の役どころを探していく、という話をしてくださったのです。働くというのは、どこの会社に就職してその会社の発展に努める、という働き方だけではないのですよ。現在は、地域に、どう貢献していくかが焦点になってきているというのが最近わたくしの悟ったことであります。ひとはまた、コミュニティの中で生きることを望むようになったのでしょうか、そうならざるを得なくなったのでしょうか。これらのアイデアは、わたくしにとってじつに斬新でワクワクするものであります。医師としての道しかないように思われていましたが、地域の活動家さんとともに活動を広めていけば、たくさんのことができるのではあるまいか。今からたくさんの繋がりを設けておきたいものです。
 また、彼が、2日東京5日地方の割合が好ましいとおっしゃっていたのを聞いて、はて、似た話を聞いたことがあるぞと、思ったのであります。以前にしごとーくで、旅館の松さんが、「東京は自分を高め、地方は自分を深めるところだ」、と言われていました。地方から出たことのないわたくしに都会に出てその荒波に一度はもまれてみたい、と思わせる言葉でありました。と同時に、地方での恵まれた環境を最大限に活用していきたいと思わせる一節でありました。わたくしは、京都で二日、長野で五日という日々を送ってみたいのです。
山さんが話されていたように、自分で動いて社会が作り上げられていく、そんな姿を第一者として眺められたら面白いのだろうと思った次第であります。
となり町のことなのに、わたくしは知らないことが多いなあと感じます。わたくしの知る世界がすべてではなくて、世の中には、お隣には、たくさんのステキな活動家さんがいらっしゃるのです。
コロナの影響についても言わずもがな、話題になりました。わたくしはあまりコロナの影響は受けてはいませんが、コロナによるメリットを挙げるとしたら、オンラインになって遠隔でもZoomを利用して様々な催しものに参加できることでしょう。京大の公開授業を受けたい今日この頃。
いまの環境を最大限に利用できる者が勝ち組となるのでしょう。

コンビニで人生を学ぶ。~樋口一葉と外国人女性~

2020.06.22.Mon

 先週のことである。わたくしは、早朝からコンビニでアルバイトを開始する。この日は、将に梅雨を象徴した日であった。朝から雨が降る。歩いてバイト先に向かったのである。

 様々な仕事がある。レジ打ち、商品の前出し、たばこの補充など。お客さんが来ないとひたすら暇なのである。ふらふらする。新聞の見出しをちらりと見る。本の立ち読みをしたいというふつふつと沸き起こる欲望を押さえようとする。こっそりと筋トレをしてみる。

 いつもの時刻に終わりになる。

 事件が発覚したのはその時であった。

 5000円のマイナス。

 メンバーの入れ替え時には、レジ内の総額とレジの登録金額が合致するか確認する。5000円である。5000円合わなかったのだ。マイナスである。オーナーの奥さんがわたくしのレジ打ちで違和を感じたという。あるお客さんに対して、9000いくらをお釣りとして返していたのに、手元には5000円しかなかったという。わたくしも9000円返したことは覚えていた。現代は便利になった。防犯カメラがある。わたくしもそのお客さんは覚えていた。8時前であった。確認すると、わたくしは預かったお金を5000円の枠に戻していた…

 やってしまった、と思った。

 マイナス分は自分で負担せねばならぬ。払った。奥さんには二日分だね、と。

 もう何が悲しいのかもわからない。ただただ沈んでいく心であった。さらにこの日はわたくしにとって、人生の節目とも呼べる日であったのだ。そんな日に限って、心は沈みゆく。同じシフトの人は、気にしないようにと言う。それができないのが現実なのである。自分のミスでしかない、この失敗をどう受け止めようか。誰のせいにもできない。お金を失ったことより、自分の不注意が悔しかったのだと思う。

 何も手につかず、街を駆ける。雨はやんでいるが、どんよりとした曇り空が続く。本屋に立ち寄って、何かヒントを求めた。

 しばらく居座った。外に出ると霧雨が降る。ここから家までは距離があるのだ。走って帰った。

 もっと最悪な事例を考えてみた。例えば、このミスが医療ミスで命にかかわるものであったら?

 あるいは、こうも考えた。わたくしは5000円で何を買ったのだろうか。人生で忘れえない経験を買った、そして、それについて考察すればそれだけの価値があるのではないか。

 この思い付きは我ながら名案だと思った。

 しかし、理屈に流されてくれないのが感情なのである。甘いチョコレートを食べた後にもの寂しさを感じるように、良い案が浮かんでも、さっ、と暗い雲に覆われてしまう。どんなつらい経験についても同じことがいえよう。

 ここまでしたら、時間が解決してくれるのを待つしかないのだろう。

 ところで、誤って5000円多く渡してしまったのは、毎朝来る外国人の女性であった。次回話をして、返してもらうことを考えた。その可能性もわたくしは捨てきれなかった。父母に一連の出来事を話すと、帰ってこないという見方を強調した。

 この日のわたくしを救ったのは、友人からのメッセージであった。

 

 明けた月曜日。わたくしはこの日もアルバイトに向かった。日々の業務をこなす。ただ、心の中では、ダメもとで彼女に話してみようと思った。

 前回よりも少し早い時刻。7時45分。この日、この時刻はたくさんのお客さんが訪れ、レジ打ちが休まることがなかった。ふと、顔を上げた。彼女がいた。胸が飛び跳ねるようであった。彼女はいつものようにコーヒーを頼む。わたくしは、COVID-19対策で下がっている目の前のビニールをよけ、きいた。5000円多く返しましたか、と。彼女は、わかんないよ、と。そうですよね、と言ってお会計をし、彼女はコーヒーを入れに行く。5000円がもう戻らないことを悟った。レジには後ろにお客さんが列をなしている。気持ちを入れ替えて、対応しようとするが、同様のあまり、言葉が出てこなかったり、あやふやになったりした。頭の中では様々な思考が駆け巡る。今の状況をどう解釈すべきか。いや、今は目の前のお客さんに真摯に向き合うべきだ。またミスを繰り返してはならぬ。

 2人目のお客さんの対応が終わるころ、視界の片隅に彼女が移った。

 動揺を隠せない。レジ打ちの決まり文句でさえ、おかしくなる。

 列を割り込んで、わたくしに話しかける。信じるから、と。ほかにも何か話したような気がするが、その言葉だけが鮮烈にわたくしの心に残っている。少しつたない日本語ではあった。だが、まっすぐな瞳がわたくしを捉えていた。手には10000円を差し出していた。ありがとうございます、と言って受け取る。信じられない思いでいっぱいだった。わたくしの言葉だけを信じてくれたのだ。

 ああ、こうも言っていた。次からは気を付けるようにね、と。

 

 認知科学を学ぼうと志すわたくしにとってこの経験は、いかに人はものを認知する範囲の狭いことか、ということを実感させるものであった。

 ミスを減らすには、どんな行動をとるべきなのか。十分に反省しておく必要がある。

・預かり金額と打ち込んだ金額の合致。

・お釣りの表示と実際に渡す金額の合致。

この二点を指さし確認するべきなのだ。

 自分の失敗談を忘れないこと。そして時にはひとの失敗を知ること。それを必ず活かさなければならない。

 わたくしは大切なことを学んだ。

 

 

 

さらば、愛しき参考書たちよ。いざ、参らん、我が町へ。

2020.03.15.Sun

本日は晴天なり。

西山の雪景色が美しい。

外に出た母が報告してくるほどである。
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今日は高校時代、予備校時代の参考書や模試をまとめる。売ってわたくしがこれから生きていくための資金にしたり、有効な資源として活用したりして頂けるよう、家の中で一生懸命労働に励む。ダンボール6箱と積めばわたくしの身長よりも高くなる模試たちに、家に残しておく参考書たちが棚いっぱい。そのた諸々。これ全てわたくしがやってきたことかと思うと驚きが隠せない。ほんとうにこんなにやったのだろうか?
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ガムテープでダンボールを閉める時は少し寂しい。少し躊躇ってしまう。でも、これらはわたくしの人生を通過していき、その役目を終え、新たな役目を果たすべく旅立って行くのだ。さらば。

 

走りに出る。日が沈みゆくこの時間は寒い。

 

帰り際に気になっていた和菓子屋さん「かなほし」に寄った。坂木司さんの「和菓子のアン」を読んでから興味が湧いた。その前からも少し話題に登ることがあって、気になってはいたのだが。女将さんがとても良くしてくれた。文字通りお金を一銭も持っていないと告げたわたくしにお菓子について教えてくれた。それだけではなくて、わたくしが住む乃和町(のわちょう)の良いところ、見どころを店内にあったパンフレットを見せてくれながら、教えてくれた。乃和ダムのもみじが綺麗だという。それから、この町にはファンクラブがあって、加入すると様々な特典があるとか。これは入るしかないのでは?

 

ここに引っ越してきた当時、わたくしはこの町があまり好きではなかった。いろいろな要因があるが、まず、第一に方言が好きになれなかった。というのも、おじいちゃん、おばあちゃんが使うものだろう、と思っていた言葉を若者が使っているのだ。カルチャーショックである。他にも、まあ複雑なあれこれ。

だが、今暮らしてしまっているのだから、そればかりでは不幸せである。わたくしは自分でこの町のいい所を見つけ、好きになりたい、と思うようになった。友だちに誘われて、町おこしの人たちと学習室を作った。直接のきっかけは京都に行ったことだ。わたくしは京都を限りなく愛す。京都に暮らすことが当分叶わないことが決まった。京都の街を歩いたことを家に帰って幾度も回想しているうち、自分の住む街をここまで歩いたことがないと気づいた。地元をもっと知ってみる、というのは面白いかもしれない。知り合いも増えるだろう。

 

今日は素晴らしい出会いがあった。わたくしはハッピーだ。

1日温泉旅行

2020.03.11.Wed

暖かな春を感じさせるぽかぽかとした日である。そして、びゅうっと風がわたくしの髪をめちゃくちゃにして通り過ぎる日である。

 

今日は温泉旅行と題して、家から5、6キロ離れた温泉へ走っていき、そこで一日中過ごす。まずはお風呂に入る。ここの温泉はかなり久方振りである。懐かしさに浸り、昼間に初めて来たことも相まって、新たな発見がある。

 

家族で来ると時間の関係もあって、なかなか出来ない、サウナ、水風呂、サウナ…のインターバルを実行する。1回目のサウナで出会った、米窪おばあさんと仲良くなって、インターバル中に様々な話をした。大学の話や教育者について、世の中の出来事について、安楽死について。COVID19のおかげでやはりお客さんは少ないよう。

 

二人のおばあさんと話したときには、彼女らのお孫さんが教育学部で学校の先生を目指していたが、実習を経て、やりたくない、と思ったという。生徒たちにビクビクする。自分が育ったときの環境とは異なる教育現場。わたくしも教育者を志したいと思った時期がある。今も薄く残っている。それ故、ただの他人事のようには思えない。

わたくしが将来なりたいと思う人物像は、村の長老みたいな者である。小さな村でも誰からも慕われ、相談を受け、それでいて村人と立場を同じくするような者。そんな村の寺子屋で子どもたちが学ぶ。どうだろうか。都会の中心部の塾であれ、片田舎の学校であれ、心の中ではそんな野望と凪の心を持った教育者でありたい。

 

お先にあがります、とおばあさんに告げ、休憩処へ。

 

持ってきた本を読む。温かな畳の上に座布団を敷き、長テーブルの上に本をおいて読む。幸せである。長風呂した後のぼおっとしてくたっとした体とほわほわした頭の状態で、本の世界に入っていく。幼い頃布団の中へ潜り込んで、自分の空想の世界へ旅立った時のように。冷たい水と温かなお茶がある。幸せである。

14:46黙祷を捧げる。本日は東日本大震災の日である。

 

お風呂2セット目。2時間強の1セット目でクタクタになっていたので、サウナには入らず、露天風呂やぬるめのお湯に使って過ごした。2セット目は1時間。子ども連れも増えてきた。ぬるめのお湯って人を動かなくする。比喩にも用いられるわけだ。永遠に入っていられる。だが、時々変化が欲しくなった。露天風呂は日もだいぶ沈み、晴れているのに細かな雨がぱらぱら降った。

 

服を着て、先の休憩処でゆったりと過ごす。18:00。少しご飯を食べる。気になっていたつくねおろしを頂く。飲むヨーグルトも。つくねおろしは、つくねの上にたっぷりの大根おろしが乗っていて、串を持った瞬間に、くるっこ回って、こてっと倒れた。串は食べるのに使えなかったのである。おいしかった。
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デザートには温泉まんじゅうもどきで、地元の蕎麦粉を使ったおまんじゅうを頂いた。お茶も一緒に。
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19:00。そろそろ発たねば。外も暗く、休憩処の一面の窓には自分の姿が映る。真っ暗な道路にぽつりぽつりと街灯が道を照らす。少し下に降りて息を呑む。視界の下に東山の麓 一面にたくさんの星が降ったよう。町の夜景だ。漆黒の空には無数の星が浮かぶ。オリオン座のスバルまではっきりと見える。東へ向かって昼間登ってきた坂道を走り下る。それはまるで、真っ暗な滑り台で滑り下り物語の中へ飛び込んでいくような。ひとつひとつの灯火にここに生きる人の物語がある。わたくしもその一員として、そこへ飛び込んでいくのだ。今日の出来事を回想する。
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暗く静かな夜道では、ウォーキングに励む人にも出会う。そんな偶然出会った人について行って話しながら歩いてみたらどうだろうって考えたらなんだかわくわくした。

 

家に帰ると、庭の梅の木を剪定した枝の花が開いていた。母いわく、切られた枝は実をつけようと花を早く咲かせるという。もちろん、部屋が暖かいという理由もあるが。庭の梅の木の花はまだ咲かぬ。
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COVID19の影響は止まらず、高校選抜野球は中止となり、感染も拡大し続ける。自分事として受け入れるようにしたい。

コンビニにおいて人生を考察す No.2

2020.03.09.Mon

本日は晴天なり。わたくしは早朝からの勤務ゆえ、東向きの窓から日の出を眺めながらレジ打ちをする。朝は通勤の途中で朝ごはんやお昼ごはんを買っていくサラリーマンやトラックのおじさんが多い。

 

月曜日は週のスタートなので、今日のわたくしみたく、元気でぴかぴかして働く人がいる一方で、憂鬱になっている人もいるかもしれないと思う。だから、わたくしは、きらきらした笑顔と明るい声で、お客様に少しでも今日一日幸せに過ごせるよう、張り切って働く。

 

昔の商店街であれ、今のコンビニであれ、人が集い、売買するところには必ず、人の繋がりが生まれる。いかなる場所、いかなる時代においても、人どうしは結びつきをもつ。だから、今わたくしが与えられたこの場所で、訪れてくださったお客様が求める商品だけでなく、店員としてサービスできることを尽くしたい。コンビニという場所が社会的にいかに非難される場所であったとしても、今わたくしがここで働く以上、だれかの日常に登場する1人になるのであり、大袈裟に言えば、だれかの人生に登場する1人になるのである。𖠚ᐝ